いちじくの花

あたしはイチジク、略してあーイク

日記たち

 ここ一年ほどローカル媒体でしか日記をつけていなかったので、この前のように急に再現不可になってしまうと恐ろしい。過去一年の日記の中で内容的に意味のあるものを、登場人物の実名などは適宜変えながら転載することにした。思い出には美しい日々しか残らないと言われるが、僕のそれは記憶ではなくハードディスクの磨耗によって行われる。

 

2019年12月8日

 朝目が覚めて、夢の影響だろうか、人間の精神は言い訳で成り立っているとふと思う。人間のすべての言論には根本原理がある。「結局ヤリモク」これは中学時代から気付いていた肉体の根本原理だが、他にも「結局マウントを取りたいだけ」「結局生き延びたい」など……サルどもの行動原理はこれだけで事足りる。こういうのを生殖的に適応と言うのだろう。では、宗教者の根本原理とは?思うに、人間の精神には何か無償の善行を成したいという願望がある。そうすればドーパミンが出る、とも言い換えられるかもしれない。宗教にはそうした、個の生物としては反生殖的な行動を心理的に正当化し、また『照れ臭くなくする』効果がある。社会的動物として進化して来た人間に特有の生存ツールなのだろうか?しかし、適応であるならばなぜ、偽善的(?)行動には恥の感情が残存しているのだろうか?

 

2019年12月29日

 梅野君が来月から北京に留学するというので会って来たのだが、酔い過ぎて「生と死は拮抗状態にあり、最後は死が勝利する」「生と死は戦争と平和の如く行為と状態とで平等な立ち位置にはない」という演説を延々ぶって正木先生に呆れられてしまった……
 生きたいががんばれない障害者は手厚く支援してあげなければいけない。しかし生きる気のない障害者は安らかに死なせてあげなければいけない。生と死は価値的に平等で、死から生へ立ち返らせる必要はない。エゼキエル書の神は悪人を立ち返らせるよう言ったが、生きる気が無いというのは悪いことじゃない。
 実際、障害をアイデンティティにして手帳でメンコやってるような人間にはかなり腹が立っているが、彼等もそういう生き方しか出来ない「種族」なんだろうかと思うと仕方がない感じがする。生きる目的のない人間が苦しまずに死ねるように設備・法律・そして宗教を整備しなければならない(?)
 ナチのT4作戦は何が悪かったのかと聞かれたら「キリスト教の精神に反する」としか自分には答えられない。もしクリスチャンじゃなかったら精神疾患・自殺未遂者・障害者・同性愛者などを国家社会の利益の為に抹殺することに何の反論も出来なかったように思う。生物的多様性?いまいち分からない…
 重度障害児が生活する施設に見学しに行った時にはとても感動したが、それはキリスト者としての感動、信仰箇条としての感動であって、政治的人間としての感動では決してなかったような気がする。政治なんかよりキリスト者として安らかに死ねる方が素晴らしいことだという。
 自分という人間はどうしようもない冷徹なマキャベリスト、経営的人間として造られ育てられていて、その身体の「社会的人間」としての欠落点をキリスト教信仰で埋め合わせてなんとか人間らしい考えを保っているように思える。俺は人類愛をやめたら自らに意識があることを肯定出来なくなってしまう。

 

1月20日

 時代劇なんかを観ていると思うが、やはり日本の美術的・思想的蓄積は素晴らしい。奥深い。この年になってまた日本が好きになって来た。日本という国家でなく、街々里々が好きになって来た。日本は素晴らしい国だ。如何に政治・行政・経済が偽物でも、桜が咲き梅が咲き椿が咲くだけで日本は素晴らしい。
 日本という国は中国・朝鮮や欧米の猿真似のコラージュに過ぎない国で、そのコラージュの妙の中から全ての新規なものが生まれて来たと俺は以前言ったが、最近どうにも日本文化の中にアジア的でも欧米的でもない一本の通低した思想を感じるようになって来た。俺はそれを仮に「あやかし」と呼んでいる。日本は中国文明でも欧州文明でもなく、何かそれ以前にほぼ滅びてしまった共通文明(アジア共有原始形質?)の子孫なのではないか?(丁度俺を含む一部日本人がチベットの子孫であるように?)という確信が最近強まっている。あの偉大なローマでも清算出来なかったブリテンケルトの「あやかし」達のような。
 日本とは何か?山である。遠藤周作は日本という国を一つの巨大な沼だと言ったが、俺にとって日本は国一つが丸ごと巨大な山岳信仰御神体であるような気がしている。しかしてその神聖な山の中では全ての恵みが混ざり合いあざれ合い再生している。ナウシカ腐海は「腐山」たる日本の空白な中心の神殿だ。
 日本の美術は不思議だ。日本という国は政治も法律も経済も工業も猿真似のなにもない国だと思っていたが、日本の美術には確実になにかがある。変わることを拒む何かがある。そして美術とは文化の総体から生まれて来るものであるから(?)先に挙げた日本の猿真似の中には必ず何か独自なものが含まれている。間柄の倫理学の中に何か日本人にとっての根源(「山」「あやかし」そのもの)を見出だせるのではないかと思っているのだが、なかなか難しい……そもそも間柄の中に本質は認めにくい。自他一如、悉有仏性、縁起、共生……ぼんやりとイメージは湧くんだが捉えようとするとすぐ何物か個人の意思になって逃げてしまう。
 日本はみやまの国である。御山、海山、魅山。深い山、美しい山。
 なぜ日本のキリスト教は岩に蒔かれた種なのか、なぜ根付かないのか!ジャマイカの『賜物と歌を』を聞いていて強く思ったが、そう言えば日本発の聖歌で成功した「やまべにむかいて」はまさしく人と山(神)との関係を歌った歌だったじゃないか。しかも恵みに満ちた関係を!
 梅原猛っぽいと指摘。梅原を読むか。国粋主義者の正体はこの日本固有の心性にあるように思われて仕方がない。『国粋主義者の正体』って一つ書きたいな。

 

 

1月28日

死ぬべきだった人間……

 現代は生権力の時代で、死ぬべきだった人間が不自然に生かされている。帝王切開で生まれた自分のような生き物はその典型だ。他にも親が毒親だった、地元でいじめられた、病気で上手く行かなかった、など様々な言い訳が現代では罷り通っているが、それもそれらの時点で淘汰されるべきであった人間だから言う言葉だ。国民国家が人口という国富に拘泥する以前はそんな人間は死んでいて良かった。死ぬべきであった人間が生きているから世に争いが絶えない。

 

2月1日

 レンタカーを借りてティナと三崎口に行く。まぐろ肉まんを食べていたらトンビにカッ浚われてビックリした。
 二人で海鮮丼を食べる。とてもおいしい。
余り食事に拘りのないティナだが刺身にだけは目がないようだ。
 二人で城ヶ島に行って日没を見る。
世界の終わりとはこのようなものだろうか、と思っているとティナが同じようなことを言う。僕は世界が終わる日、一体誰と何をしていたいだろうか?岬でカメラマンが独り終末の夕陽にカメラを向けている。風が強い。風に立つライオンは彼のような姿だろうか、と思った。
 そのまま16号を通ってティナを送った。途中のサイゼリアでごはんを食べた。普段の彼女は美人だと思うが、ごはんを食べている時のティナはあほでかわいい。

 

2月8日

 警察力にせよ軍事力にせよ、国家の究極的使命は暴力の行使にある。附随する福祉等の他の役割も暴力に還元可能。法律は長大な正戦論で、憲法は戦時条約(国家にとって戦時とはすべてである!) 有形無形の暴力を通貨として行動することが国民としての幸福の追求になる。

 

2月23日

 エホバの証人へ反論したいこと。
 あなた方は悪しき魂は無に還り滅びると言うが、無に還ることのなにがいけないのか。魂を滅ぼすのは、有を無とするのは神ではないか。無は神さまがお造りになった愛なのではないか。いずれは愛以外の全てが無になるのではないか。聖書は預言であり、まじわりは異言であるが、それらも止み、廃れ、愛である無のみになるのではないか。なぜ、無へと還ってはいけないのか。無から生まれたものは無へと還るだけではないのか、塵から生まれたものが塵へと還るように。あなた方は義人の魂のみが滅びを免れて地上で肉体と共に楽しむと言うが、それは神がこの世に諸々の労苦と併せて我々を置いたように、新たに人を選び出して責め苦に遭わせているだけで、ほんとうに幸せなのは滅びた人々のことではないのか。その者の為には生まれない方が良かった。
あなたは神を愛するか?たとえあなたが、たい焼きを頭から食べたことで滅びるとしても、あなたは滅びの時に主の御名を誉め称えるか?

悪しき魂が滅びるのは神の憐れみであるか?
神は憐れみを以て悪人の魂を滅ぼすのではないか。

 

2月27日

 根が無いんだ。大地に根を張って生命を広げて行くことの出来る種族か、そうではない、岩の上で枯死を待つだけの種族か。25を過ぎてから何か焦りが出て来て、過ぎ去ったことを流す生き方はやめよう、何でもいいから積み上げて行こう、と思い始めて来たが今度は何も出来ずただ流されるだけになった。いやしかし、確かにミドルティーンの昔に比べれば、自分は生きているという自覚がハッキリと出て来ている。昔は何もかも薄ぼんやりとしていて、自分の人生は自分のものであるという強烈な自意識に欠けていた。言ってみれば物心がまだ半分しかついていなかった。自分という半他人に慣れていなかった。
 高校時代、自分なりにかなり深く生き方に悩んで色々な本を読んだと思っていたのだが、それにしては思い出せることは少ない。じゃあ読書以外の何かを楽しんでたんじゃないの?と考えてみても、午後しか学校に行っていないので授業の記憶は殆ど無いし、部活も殆どだらけてただけ。強いて言えば散策はよくやったな。2時間目から出席しても7時間目から出席しても文部科学省には「遅刻」として報告されるので、それならギリギリまでサボッてやろうと思って色んな場所を歩いて時間を潰していた。革靴が消耗するので結果的には高くつく遊びだったが、散策しながら考えたことは多かった。

 

3月1日

 寝ていたらティナが家に来た。
 コロナ騒ぎで映画館が閉まっているので、七人の侍を観る。4Kリマスターはたぶん字幕が無いので、初見のティナにとってはこっちの方が良かったかもしれない。
 キノコと昆布で出汁を取ったうどんを作って二人で食べる。ベジタリアンみたいな食事だが、うまい。ティナも美味しいと言ってくれた。

 昔、仕事中に沙也佳さんが言っていたが、普通の彼氏彼女というものは会う度にセックスをするのだという。それはまあ、彼女に会う最大の目的がセックスなのであればそうなのだろう。しかし僕がティナに会う時にはセックスの優先度は精々四番目くらいだ。セックスの他にもやりたいことは一杯ある。子どもの頃からモテ続けていない男は女に会うとつい体を求めてしまうのだろう。哀れなことだ。女の滋味は体よりも心にある。それが若い女であれば尚更だ。逆説的だが、若い女ほど心がよく、年老いた女ほど体が良い。雛祭りにも会いたいが、ティナの高校は雛祭りの日に卒業式をやるらしい。残念。

 

3月19日

 創作談義で人とケンカ。「君には死を賭して言いたいテーマはあるのか!」と怒ったが、自分自身もこれを短く説明するのは難しいな。「救済のグロテスク性」とか「最高度の抽象である神は最高度の具体として現前している」とか、色々と言いたいことはあるけれど、公共電波を全部10秒間だけジャックして言いたいことは何かと聞かれたらそれは「ちいさな愛」だと思う。みんなちいさな愛、ちいさな愛を大切にしなければならない。十日に一度断食をして米を分け与えたホーチミンのように。

 

4月7日

 海が好きだけれど体質が合わないので海には住めない。同様に明るくて元気な女が好きだけど明るくて元気な女と一緒にいると心が磨り減って行くのでいつもジメッとした女とばかり心も体も相性が合う。楽園は美しいが俺の住む場所ではない。

 

5月26日

 自分は痴呆のように馬鹿になったなと感じる。精神病のせいだとか、服薬のせいだとか、色々と言われるけれど本当のところは老化なんだと思う。十九歳かそれぐらいかの頃の繊細で明晰で透き通るような思考はどこかへ行ってしまった。あの頃は怖いもの知らずでズンズンと思考の足が進んだものだった……
哲学書を一日二日で読んでいる人を見ると凄いなと思う。もう別世界の人間みたいだ。いつからか頁を捲る度に引っ掛かるようになってしまって、今では手に取るのも恐ろしい。新しい何かが自分の中に投げ込まれるとその度に精神が恐慌を起こす。豫才君、僕は「鉄の部屋」の中で静かに微睡んで死にたいのだ。

 「哲学が楽しい」という発言を見て嫉妬に満たされてしまった。僕にはもう考えることは出来ず、ただ信じながら待つことだけが許されている。太った豚にも痩せたソクラテスにもなれない。痩せた豚だ。主よ、神の国には痩せた豚にも安寧の場所があるでしょうか?
 僕は永遠の命を信じる。僕の信仰告白には本来、その言葉しか要らなかった。最近のエキュメニズム派の教会では永遠の命の話はタブーのようになってしまったが、僕は永遠の命を信じるし、願う。何故ならばこの世には永遠以外のすべてがある。そして目の前に持てるものを願い信じ希求することは出来ない。
 残酷だ、残酷。世のすべては残酷で、人間には嘆くこと、悲しむこと、泣くことぐらいしか出来ない。

 

5月27日

 歩いていて思う。何故敵を愛するのか?ではない。敵だから愛するのだ。
 ああ、また日が沈む。愛する太陽と毎日離別しなければならないのはとても苦しい。
 仏教は、と言うより浄土教はやはり素晴らしい。元の仏教とはかけ離れているが、思想として素晴らしい。本当にそう思う。もし僕が輪廻転生を信じられたらキリスト教徒ではなかったかもしれない。
 ベルイマンが何故神との関係を撮らなくなったのかが最近少し分かる。神もまた孤独に思い悩む一人の罪人に過ぎない。神は一者の孤独に打ち震えて「ことば」を作ったのかもしれない!アクィナスの言う「神の至福」は殆ど孤独の中での大悟に近い。神の孤独。神もまた、人であるにせよことばであるにせよ何者かに愛され赦されたかったのだろうか?

いや、神の愛と人の愛とは異なる。神の愛は存在を与えるが、人の愛は存在を認める。アッバ、父よ、しかし意識にとって認めるということは与えるということに他ならないと言われると反論できなくもあるのです。復調したらエディット・シュタインでも掘ろうか?

 人間は何故哲学をするのかと聞かれたら、この世に生まれて来たことが悲しくて哲学をしているのだと僕は答えたい。まあ、人間が主語だから答えは一意に定まらないけれど。この世に生まれて来たことが嬉しくて、感謝の哲学をする者もある。深い悲哀。

 大衆の美しさは、今についてはともかく、明日については絶望していないことだ。最近、とみにそう感じる。

 

6月20日

 無宗教者の神殿には己しかいない。崇めるべき神も、仕える神官も、神殿娼婦も、そして生け贄までもが自己だ。彼等は自己崇拝者でありながら同時に自己燔祭者でもある。捧げ物をする相手として己しか認められず、そして捧げ物には己しか見つけられなかった。ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』独裁者と臣民の節を読んで思う。

 

7月24日

 古い朝。悟りの後に待っているのは古い朝なのではないか。日の休むところ、西方に極楽浄土はあるという。それまでには夜見の国を通って行かねばならないという。人が夜を抜けて静かな目で見るものは、古い朝なのではないだろうか?

 

8月1日

 幸福とは富や権力よりも「飼育感」であると思う。昆虫を飼っていた幼い頃、毎日成長して行くのが楽しみで数分おきに飽きずに飼育箱を見つめては成長を待っていた時間……みたいな。毎朝起きる度に世界の歴史に対してそれを感じて、健康にボケずに長く生きたいなと思う。世界は大きな大きなアクアリウムのようなもので、その中で無数の微生物がそれぞれに微妙に関与し合う生態系を作っている、そう思うと観察するのが楽しくなる。だから株価も見ていて楽しい。

 

8月22日

 食糧備蓄令の中国だが、テレビCMに人民解放軍の募集がいつも流れるようになった。自由主義と管理社会、どちらが21世紀の勝利者となるのか見物だ。僕はその時に損をしない社会的ポジションを今から取らなければならない。学級裁判に逆らってはならない。人類の集団的行動は全て軍事に従属しており、民衆のヒステリーに理で立ち向かってはならない。